Light house

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カンボジアで神様に会った

 

2016年12月末、わたしはカンボジアを訪れていた。

 

カンボジアは、ビザの申請がいるから入国がめんどくさく感じる人もいるだろうけど、ビザの申請なんて現地の空港でできるし、日本で申請するより簡単そうで申請が通らないなんてこともなさそうだった。

 

まあ、そこらへんについてはまた別に記事を書くとして。

 

 

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ずっとずっと行ってみたかった、アンコール遺跡。

 

アンコール遺跡というのは、シェムリアップ周辺にある、クメール王朝時代の40以上からなる遺跡群の総称のこと。

アンコール遺跡群ともいう。

 

だから、一口にアンコール遺跡といっても、様々なものがあるわけで。

アンコールワット、アンコールトム、プノンバケン、タプローム、などなど。

 

その中には、某ジブリ映画のモデルになったと言われる遺跡もある。

 

もちろん全部見るのは時間的に無理だったので、主要なところだけを攻めた。

 

(あと、後悔しているのは、アンコールワットの全体像の写真を一枚も撮らなかったこと…。あれを撮らずして何をしてたのか、わたしは!)

 

その姿は圧巻で、ひとつひとつのレリーフも美しかった。自分の語彙力のなさを心の底から恨む。

 

また、アンコール遺跡といえば、カンボジアの悲しい歴史とは常に隣り合わせの存在。

今にも崩れそうになっている遺跡や、だんだん丸くなってきている石段に、長い年月とその重さを感じた。

 

 

 

ぐるぐるとアンコール遺跡を巡っていたわたしは、バイヨン(Bayon)に辿り着いていた。

 

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 写真でわかるかな。

 

バイヨンのひとつひとつの塔は、すべて観音菩薩の顔でできている。

カンボジア自体は仏教の国だけれど、アンコール遺跡はヒンドゥー教の遺跡が多い。

前情報なしで行ったから、いきなり観音菩薩像が出てきたときには、少し驚いた。

 

そしてそのままバイヨンをぶらぶら、ふらふら。

 

奥へ奥へ進むと、何やら部屋がある。

そんなに混んではいなかったけど、地元のひとや観光客が代わる代わる入っていた。

なんだろうな、と思って興味本位で部屋に入る。

 

 

そこは、真っ暗闇の静寂の部屋。

蝋燭とお供物の線香の光の合間に、一体の像が佇んでいた。

 

 

なんだろう、この部屋。

 

 

真っ暗闇の静寂の部屋に、一体の像がいる。それだけ。

人々は手を合わせて、その場を離れていく。

 

ただ、それだけの部屋なのに。

 

わたしはなぜか涙が止まらなくなった。

 

 

 まるで、すべてを見透かされているような残酷さと。

まるで、すべてを赦されているような安堵感と。

まるで、自分がひとりぼっちかのような寂しさと。

 

外はあれだけ暑かったのに、この部屋の空気はとても冷たく、澄んでいる。

 

わたしは何か、追い詰められているような切迫感に襲われて、必死に手を合わせた。

 

何を祈ったかは、わからない。

 

 

◇◇◇

 

  

宿に戻ったわたしは、バイヨンについて調べていた。

 

クメール語ではバヨンと発音し、「バ」は塔、「ヨン」は美しい、という意味だということ。

古代インドの宇宙観を具現化した遺跡だということ。

 部屋に置いてあった像は、上座部仏教のものだった。

 

 

今まであんなふうに泣くなんてこと、必死に祈るなんてこと、なかった。とくに信仰している宗教があるわけでもないし。

 

そもそも、祈るってなんだろう。

 

宗教や神様を信じる人はたくさんいるけど、その人たちは何に祈るの?

 

神様はたくさんたくさん存在する。

 

「毎日平和で暮らせますように」?

「病気が治りますように」?

「死んだら天国にいけますように」?

 

どれもイマイチ。ピンとこないし、あのときのわたしの気持ちはこの中のどれでもない。

 

ただただ、祈らなくては、という気持ちにされた。あの気持ちはなんだったんだろう?

 

とりあえず、もう一回バイヨンに行こう。そう思った。

 

 

◇◇◇

 

 

次の日。

わたしはまた、バイヨンにきていた。

あのときの気持ちを、もう一度感じて、一体なんだったのか、知るために。

 

よくみると、バイヨンの観音菩薩の顔は、とっても優しい顔をしていた。嬉しかった。

 

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奥へ奥へと進む。

また、あの部屋がある。

像が佇んでいる。

 

昨日よりは混んでいなかったけど、先客の欧米人がいた。

  

そしてその欧米人は、ずっと手を合わせて、泣いていた。

 

まるで、昨日のわたしみたいに。

 

 

何がそうさせるのかはわからないけど、昨日よりは確かな、落ち着いた気持ちで像に向き合うことができた。

 

そしてやっぱり、わたしは泣いた。

 

 

◇◇◇

 

 

祈るということ。

 

 

人によって様々な意見や定義があるのだろうけど、少なくともわたしがバイヨンでした祈りは、

目の前にいる神様という圧倒的な存在を前に、自分の無力さを感じ、それを認めることだった。

自分の存在がとてもちっぽけなものだということの、悲しさと嬉しさを感じていた。

 

最初、追い詰められたような気持ちになったのは、初めて目の前に神様という存在を感じて、驚いたから。

 

普段、そういうことを考えて生活していないだけに、なおさら。

 

 25歳の冬、わたしは人生で初めて、神様を感じて、祈るという行為をしたのだと思う。

 

カンボジアの、アンコール遺跡で。

 

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